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磨崖仏(俗称二十五菩薩)

左:シミュレーション前 右:震度5のシミュレーション後
左:シミュレーション前 右:震度5のシミュレーション後

国道一号をはさんで西側に23体、東側に3体がそれぞれ大きな岩盤に彫られた仏像(磨崖仏)群です。
それぞれの岩盤には、各所に亀裂が縦横に入っていたため、3次元解析を行ったところ、震度5弱の地震で崩壊する恐れがあることがわかりました。そこで、崩落の危険が高い部分はアースアンカーで固定し、亀裂を充填・接着しました。
また、発掘調査より、周辺の路面が約5メートル埋まっていたことがわかったので、当時の高さまで掘り下げ、菩薩像を仰ぎ見る形に復しました。


 

亀裂に樹脂を充填したのち、表面に擬岩処理を施しています。
亀裂に樹脂を充填したのち、表面に擬岩処理を施しています。

崩落を防ぐため、アースアンカーで安定化を図りました。
崩落を防ぐため、アースアンカーで安定化を図りました。

国道1号をはさんで、西側に23体、東側に3体が岩に彫られた磨崖仏群です。銘文より永仁元年(1293)から造られ始めたものと考えられています。
地蔵菩薩立像が24体を占めますが、阿弥陀如来立像1体と供養菩薩立像1体も見ることができます。大きいものは高さ1メートル、小さいもので高さ20センチを測ります。
昭和49年(1974)、国の重要文化財(彫刻)に指定されました。

磨崖仏(俗称六道地蔵)

大きな岩盤に彫られた高さ3.5メートルに及ぶ地蔵菩薩坐像で、鎌倉時代に造られた磨崖仏としては線刻のものを除くと関東で最大級のものです。
岩盤の各所に亀裂が走り、崩落の危険性があったため、その充填や接着を行ったほか、岩面の劣化を防ぐため、洗浄や基質強化・撥水処理を施しました。また発掘調査によって、周辺の地盤が山崩れにより3.5メートル埋まってしまったことがわかったので、山崩れを防ぐための石垣工事を実施するとともに、周辺を当時の地盤まで掘削し、当時の景観に復しました。
また、昭和初めに造られた白毫や右手、錫杖なども正しい姿に戻し、あわせて覆屋(地蔵堂)についても基礎が確認された室町時代当時の姿で復元しました。

磨崖仏

遺構を平板測量し、記録を作成しました。
遺構を平板測量し、記録を作成しました。

全面に足場を組んで作業しました。
全面に足場を組んで作業しました。

覆屋の変遷
覆屋の変遷

巨大な転石に彫られた像高3.5メートルに及ぶ地蔵菩薩坐像です。銘文からは正安2年(1300)の造像であることが読み取れます。
昭和49年(1974)、国の重要文化財(彫刻)に指定されました。
覆屋は幅4.5メートル、奥行き7.1メートル、高さ9.2メートルで、杉材を用いて建てられており、屋根は寄棟で?葺(こけらぶき)になっています。

石造五輪塔(俗称曽我兄弟・虎御前の墓)

国道一号沿いに高さ約1.5メートルの石造五輪塔が3基並んでおり、左側2基が「曽我兄弟の墓」、右の1基が「虎御前の墓」と呼ばれています。
これらの石塔は何度も倒れたことがあるらしく、方位も変えられ、各部材には欠けてしまった部分が見られました。
整備では、一度これらの塔を解体し、それぞれの部材に修理を施しました。そして改めて地盤を整えた後、各部材に刻まれた梵字から判断して、本来の正しい方位に積み直しました。

整備に先立ち実測を行いました。
整備に先立ち実測を行いました。

水輪部分を慎重に組み立てているところです。
水輪部分を慎重に組み立てているところです。

左側2基が「曽我兄弟の墓」、右側1基が「虎御前の墓」
左側2基が「曽我兄弟の墓」、右側1基が「虎御前の墓」

国道1号沿いに建てられた、総高約2.5メートルの3基の五輪塔で、並んでいる2基が「曽我兄弟の墓」、一回り小さいものが「虎御前の墓」と呼ばれています。「虎御前の墓」に刻された銘文より「永仁三年」(1295)に建てられたものと考えられます。
昭和36年(1961)、国の重要文化財(建造物)に指定されました。

五輪塔とは・・・

日本で生まれた塔で、密教において宇宙の構成要素と考えられた「五大」(地・水・火・風・空)を象徴しています。古くから供養塔として建てられ、近年は木製の塔婆としても使われています。

宝篋印塔(俗称多田満仲の墓)

精進池のほとりに建つ、高さ約3メートル(相輪除く)の石造宝篋印塔で、源氏の祖・多田満仲の墓と呼ばれています。関東の在銘塔では現存する最古のものです。
この塔も倒壊を繰り返していたようで、各部材の方位も変えられ、破損してしまった部分も見られました。そこで、この塔も一度解体し、それぞれの部材に修理を施しました。そして、発掘調査によって明らかとなった基礎の部分を復元整備し、そこを保護しつつ改めて地盤を整備した後、各部材の銘文や梵字などを手がかりに、正しい方向に積みなおしました。

整備に先立ち調査をしているところです。
整備に先立ち調査をしているところです。

各部材の間には薄い鉛の板を挟み、ずれないようにしています。
各部材の間には薄い鉛の板を挟み、ずれないようにしています。

写真:宝篋印塔
 

宝篋印塔とは・・・

主に石で造られた塔の一種で、笠を階段状に造ることと四隅に隅飾を持つことが特徴です。もともとは基礎の内部に宝篋印陀羅尼というお経を納めたことからその名が付けられました。外面にも宝篋印陀羅尼が刻まれることが多く見られます。

磨崖仏(俗称応長地蔵)

精進池のほとりにやや小ぶりな岩盤に3体の地蔵が彫られ、応長元年の銘があることから「応長地蔵」と呼ばれています。
整備前は、山崩れなどによって、下半分が埋まってしまっていましたが、発掘調査により石積みが2列発見されました。
そこで、出土した遺構を保護するとともに、岩盤自体の崩落を防ぐため、約60センチメートル高いところに改めて地盤整備を行い、設置し直しました。


 

土砂崩れ等の影響で下半が埋まり、左側に傾斜していました。発掘調査では、地中から方形の切石が仏龕に平行して二列検出されました。
地中の遺構を保護した上で地耐力を得るために岩体の下を版築で突き固め、約六十センチメートル嵩上げしました。岩体には保存処理を施し、その下には出土遺構を基に詰石と版築を復元しました。

発掘調査をしているところです。
発掘調査をしているところです。

整備前は左に傾いていました。
整備前は左に傾いていました。

切石と版築で固定しました。
切石と版築で固定しました。

精進池のほとりにある、高さ124センチメートルの安山岩に素朴な地蔵菩薩が彫られたものです。二つの龕があり、大きい龕に一体、小さい龕に2体の地蔵菩薩が彫られています。応長元年(1311)の造像願文が彫られています。昭和49年(1974)、国の重要文化財(彫刻)に指定されました。
かつて宮城野地区では、家族に死者があると、四十九日以内にここまで家族の者がやってきて送り火を焚く「浜降り」という風習があったことから「火焚地蔵」とも呼ばれています。

宝篋印塔残欠(俗称八百比丘尼の墓)

精進池のほとりにある宝篋印塔の残欠で、全国各地に伝説の残る「八百比丘尼」の墓と呼ばれています。室町時代初めの「観応元年」銘があって、石仏群草創に続く時期に造られた石塔です。
整備前においてもすでに正しい姿は失われており、また発掘調査によっても遺構は発見されませんでした。
そこで整備にあたっては現在確認できる最も古い資料である『七湯の枝折』(文化8年—1811)に描かれた姿をもとに復元しました。

整備前写真
整備前写真

一度解体し表面処理を施したのち、据え直しました。
一度解体し表面処理を施したのち、据え直しました。

精進池のほとりに建てられた石造塔の残欠です。受台部分に観応元年(1350)の年紀を有する刻銘があり、石仏群草創に続く時期の作善の様子を伝える数少ない遺物の一つです。

七湯の枝折より(八百比丘尼墓)
七湯の枝折より(八百比丘尼墓)

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