国道一号(こくどういちごう)と箱根湯本駅(はこねゆもとえき)明治時代(めいじじだい)になると関所制度(せきしょせいど)も廃止(はいし)され自由(じゆう)な旅(たび)ができるようになりました。

 

しかし、明治(めいじ)の初めごろに箱根(はこね)を訪(おとず)れた福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、まだ道路(どうろ)が整(ととの)えられていない箱根山(はこねやま)の現状(げんじょう)におどろき、箱根(はこね)の人々(ひとびと)に道の重要性(じゅうようせい)を説明(せつめい)しました。

 

これにこたえたのが、二宮尊徳(にのみやそんとく)の弟子(でし)のひとりで、湯本(ゆもと)の旅館(りょかん)の主人(しゅじん)であった福住正兄(ふくずみまさえ)でした。

正兄(まさえ)はさっそく小田原の板橋(いたばし)から湯本村山崎(ゆもとむらやまさき)までの東海道(とうかいどう)の改修工事(かいしゅうこうじ)を行い、箱根(はこね)に人力車(じんりきしゃ)が入れるまでになりました。

 

この新道工事(しんどうこうじ)は箱根山(はこねやま)の人々(ひとびと)、特(とく)に温泉場(おんせんば)の人々(ひとびと)によって引(ひ)き継(つ)がれていき、塔之澤(とうのさわ)、宮ノ下(みやのした)への道路(どうろ)が次々(つぎつぎ)と開(ひら)かれていきました。

 

 

そして明治(めいじ)37年には、ついに小涌谷(こわくだに)、芦之湯(あしのゆ)を通り、芦ノ湖畔(あしのこはん)までの道路(どうろ)が完成(かんせい)しました。これが今日(こんにち)の国道一号(こくどういちごう)です。


これにより、人々(ひとびと)は江戸時代(えどじだい)の東海道(とうかいどう)から、温泉場(おんせんば)を結(むす)ぶ新道(しんどう)を通るようになり、箱根(はこね)は温泉地(おんせんち)として広く知られるようになりました。また外国人(がいこくじん)たちも多く訪(おとず)れるようになり、国際観光地(こくさいかんこうち)として栄(さか)えていったのです。

 

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