石仏群の成り立ち

精進池周辺の石仏や石塔は、鎌倉時代後期の一時期に集中して造られたことが大きな特色です。そしてそのほとんどに地蔵菩薩が刻まれるなど造立の背景には地蔵信仰との深い関わりがうかがえます。
なぜ、この辺り一帯がこのような地蔵信仰の霊地となったのかというと、当時ここは箱根越えの道として使われた「湯坂道」の最高地点に近く、歌人・飛鳥井雅有がこの地を通過する時に「この地に地獄がある」と記したように、険しい地形や荒涼とした風景などから「地獄」とみなされ、恐れられていたようです。
そのため、「地獄に落ちた人々を救ってくれるのは地蔵菩薩」という地蔵信仰が全国へ広がる中で、「地獄」と恐れられたこの地もまた、旅人をなぐさめるため、地蔵信仰の霊地となっていったと考えられます。
それぞれの石仏や石塔をご覧いただくと、ところどころに、これらの造立にたずさわった人々や、由来などが刻まれています。
こうした中で注目されるのは、「多田満仲の墓」と呼ばれる宝篋印塔の銘文で、造立の発願者のほかに、石工の代表として大和国の「大蔵安氏」、導師として大和国西大寺の僧侶叡尊の弟子で、鎌倉極楽寺の住職であった「良観(=忍性)」の名が見られることです。
忍性は僧侶として活躍する傍ら、慈善事業として数々の土木や建築事業を行っており、こうした職人集団と深くつながっていたことがうかがえます。
このような大規模な石仏や石塔の造立にも、多くの石工たちが動員されたと考えられることから、これらの造立に、忍性が深く関わっていたとも考えられます。

箱根の石仏群の歴史について年表をつくってみました。

石仏群の歴史年表
石仏群の歴史年表

 

 


 

江戸時代の石仏群

江戸時代になると、湯坂道に代わり須雲川沿いのルートが東海道として整備され、往来には東海道筋がもっぱら利用されるようになりました。
一方で、江戸時代半ばを過ぎると、街道をはずれて箱根七湯の各温泉場を訪れる湯治客が増えていきます。その中で、石仏群は芦之湯温泉に近いこともあり、湯治滞在中にここを訪れる人々も増加していきました。
これに伴い、石仏や石塔は、当時江戸を中心に浄瑠璃や歌舞伎で人気の「曽我兄弟」の物語や、数々の伝説と結び付けられ、観光名所としても知られるようになりました。当時の代表的な温泉案内書『七湯の枝折』(1811年)には、箱根山名所の一つとして紹介されています。

江戸時代の石仏群

経年による劣化の状況

硬い安山岩でできた各石仏・石塔ですが、長い年月風雨にさらされることにより、表面が風化磨耗したり、苔に覆われたりしてしまいます。また、植物の根により岩盤の亀裂が広がってしまう箇所もみられるようになります。さらには、地震や土石流により石塔の倒壊や磨崖仏の埋没も繰り返され、周辺の地形も変貌しました。
明治37年(1904)、新道が建設される際には、石仏群を縦断していた「湯坂道」が破壊され、さらに大正9年(1920)、この道が国道一号線に改修される際に、周辺地形にも手が加えられてしまいました。

整備で目指したこと

石仏・石塔がこの地に集中する意味や、その信仰目的、この地の持つ風土を認識し、当時ここを行きかう人の意志や精神状況を表現し伝えることは歴史的に重要で意義のあるものです。
そこで、造立時の地形や、各石仏・石塔の構造、石仏・石塔に刻まれた内容について、復元考証を行ないました。
岩体には表面に化学的な処理を施したほか、安定化を図るため、亀裂に樹脂を充填し、崩落の危険性が大きい箇所にはアースアンカーを打ち込み補強を施しています。
しかし、このような作業も劣化の速度を遅らせただけの処理で、日常的な維持管理がとても重要となります。
したがって、この地が地蔵信仰の聖地だったことを感じ取っていただけるよう史跡公園としてよみがえらせ、次の世代に受け継いでいけるようにしました。

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